
「腸捻転(ちょうねんてん)」…ここでは病気の名前ではない。
テレビのネットワーク史を語るとき避けて通れないキーワードだ。
ここでは、1975(昭和50)年3月までの大阪地区のネットワーク構成のこと。
今でこそ大阪でいう4チャンネル(毎日放送・以下MBS)は東京放送(以下TBS)、6チャンネル(朝日放送・以下ABC)はテレビ朝日と組まれているが、なぜかこれと逆だったのだ。そしてそれよりも複雑だったのだ。
政治的部分も絡んでおり、少々難解・長文だが、現存した民放教育専門局の歴史を絡めてどのような経緯をたどったのか記録に止めておきたい(一部大げさな表現、伝聞による文がありますがご了承ください。文中敬称略)。

民間放送ラジオが産声を上げて間もない、昭和27(1952)年8月30日。
その前年に開局した大阪の民間ラジオ局・新日本放送(現在のMBS)とABCが共同でテレビジョン放送局の免許申請を行った。これが後の「大阪テレビ放送(以下OTV)」である。
今でこそ放送局同士の事業提携は珍しくないが、毎日新聞系の新日本と朝日新聞系のABC…究極の「呉越同舟」は内外からアッと驚かせた。
このライバルの2社があえて手を携えたのは理由がある。この年11月7日「3大地区テレビ・チャンネルプラン」が発表されるが、関係者によりその情報はすでにキャッチされていたのだ。つまり、大阪では「第4と第6」の2チャンネルが割り当てられ、うち1つが民放…となるとラジオ開局の時に見られた新聞社間の競争(大阪で1つだったのが、2つになった)は絶対不可能であり、また新規開業を狙う社も出てくる可能性もあったため、両社共同申請となった。
案の定全国展開を目論んでいた日本テレビ放送網(以下日テレ)、新聞界からは産業経済新聞社(※以下サンケイ。前田久吉)、ラジオ局の京都放送(KBS京都)、同じく神戸放送(現・ラジオ関西)との競願となったが、29年12月3日に予備免許を取得、30年5月25日の創立総会を経て、31年12月1日午前10時、第6チャンネル・JOBX-TVのコールサインで開局した。この日は名古屋の中部日本放送(CBC)のテレビも開局している。
OTVは自社制作でも力を入れるが、ネットワークは一本のマイクロ回線を使用するほかなかったため、ラジオ東京テレビ(KRT=今のTBS)と日テレの主要スポンサー付き番組を放送していた。当日は当時人気のあった『何でもやりまショウ』(19:30〜 日テレ発)、ドラマ『日真名氏(ひまなし)飛び出す』(21:15〜 KRT発)を放送している。外部から「賭け」と言わしめたVTRをいち早く導入し、エリア外…極めつけは富士山頂上からの中継も積極的に行うなど、今考えると自由闊達なテレビ局であった。
半年後、「テレビ割り当て計画基本方針の一部修正」(後の第一次チャンネルプラン)が郵政省(現・総務省)から発表される。
全国でテレビ免許申請があまりにも多数に上るため使用できるチャンネルを「6から11に」したことと、同省の教育テレビ構想があったためだ。京阪神地区は当初NHK1、民放1に加え新しく2局を加え4局とする(第8と第10が割り当て)…とはされた。
OTVは関西唯一の民放テレビということもあり順調ではあったが、母体である新日本・ABCが別々のテレビ局を持ちたいと思うのは「メンツをかける」意味で当然である。そのためそれぞれ単独で免許申請していた。
しかし新興勢力も負けてはいない。その1つであるサンケイ・京都放送・神戸放送、そして京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)が母体の大関西テレビジョン放送(現・関西テレビ放送)が予備免許を受けたのが32年7月8日だが、新日本・ABC両社と大阪讀賣新聞系の新大阪テレビ放送、それに1局で全国ネットを目指していた日テレについては拒否された。もう1つの波については宙が浮いた形になったが、真紀子の父・田中角栄(当時郵政相)はじめ自由民主党(自民党)の有力政治家を巻き込んでの免許争奪戦となった。
9月17日。これではアカン…と京阪神と札幌地区に出した切り札はチャンネル増と、教育テレビ構想の延長とも言える「準教育テレビ局」という苦し紛れの飴と鞭。京阪神ではチャンネルを4から5に増やすものの(これで姫路(兵庫)に割り当てられていたNHKの第2は削られる羽目に…)、その代わり教育20%以上・教養番組30%以上にする準教育局を1局にするというものだった。が、大新聞社がバックだった事もありこれでも収まらない。
そこで当時米軍が使用していた第12チャンネルを空ける必要に迫られた。曲折はあったが、京阪神に限っては使える見通しが付いたためこれをNHK大阪教育テレビに当てることでチャンネル問題は一件落着した(11チャンネルまでが当たり前とされたので、当時「隠しチャンネル」として話題に…)。
10月22日、田中は電波監理審議会の答申に従い、NHK7局と民放テレビの34社36局に「よっしゃ!よっしゃ!」と言わんばかりに予備免許を交付した。
京阪神地区では新日本放送と新大阪テレビ放送、札幌地区は札幌テレビ放送に準教育テレビ局の予備免許を獲得した。そして必然的にOTVはABCとの合併が確定した。新日本放送は翌33年12月のテレビ開局を目指すべくゼロからテレビ事業をスタートさせ、6月1日に『株式会社毎日放送』と社名変更した。
33年8月、OTVのネット番組の22%を占めていた日テレの番組がごっそり消えた。
原因は新大阪テレビ放送改め讀賣テレビ放送(よみうりテレビ 33.8.28開局)が日テレ系になった事。よみうりテレビは読売新聞系列の純然たるテレビ局で「日テレの番組しか放送しない」というステーションネット宣言を打ち出していたからだ。11月22日には関西テレビも開局し、阪急系の映画会社・東宝との関係からフジテレビ(34.3.1開局)と組む事が確定されていた。よって、大阪テレビはKRTからの番組を受けるしか他がなくなった。
このとばっちりを受けたのがMBS。KRTから一部の番組をネット出来るよう準備を進めるが、開局予定日ギリギリになってKRTの専務・今道潤三(のちTBS社長・会長)に「(OTVとの協定もあるので)MBSへの移行はできない」と頑として断られる。せっかくの努力も水の泡となった。
そのため開局予定1週間前に「開局延期」を発表、34年2月開局の日本教育テレビ(NET=今のテレビ朝日)とネットを組まざるを得なくなり、4ヶ月後の34年3月1日に開局する。その34年4月10日、1500万人がテレビで見たとされる皇太子(今の天皇陛下)ご成婚中継を経て、6月1日にABCとOTVが対等合併される。
これ以降もKRTは3社ニュースを放送していたが、NETは朝日新聞からニュースの提供を受けていたため、事実上ネットワークの腸捻転現象がここに発生した。テレビの画面では朝日の解説委員がMBSに、毎日の記者がABCに…テレビは良くても、新聞側にとってはノイローゼになりそうな雰囲気だったに違いない。

日本経済新聞(日経)・旺文社・東映などが出資し世界初の「CM付き教育テレビ」として開局したNET。郵政省から教育53%以上・教養30%以上の番組を義務付けられ、午前中には『野球のおじさん』(小学校中学年向き道徳)、『テレビ百科事典』(全学年)といった学校放送、お昼にもJ・B・ハリス先生の『百万人の英語』(ラジオではおなじみだが、テレビ版が存在した)、夜は日本医師会推薦の外国ドラマ『メディック』…と一日中ほとんど「楽しい勉強、よい子のテレビ」とばかりに理想は高かったが、それがかえって経営的な重荷を背負わされ、その背景にはコマーシャルの制限もあった。
『テレビ朝日社史』(58年)によると…
「文部省(現・文部科学省)の指導により、配置場所、(字幕)スーパーの回数、中CMの秒数などさまざまな制約が課せられ、その宣伝効果も間接的・遅効的であるとして、スポンサー側から敬遠され、所期の営業効果を上げることができなかった。(中略)このような状況のなかで学校教育放送の展開と維持は、視聴の拡大や番組制作費の回収の両面でまもなく行き詰まった。35年を具体的な例として取り上げてみると、学校放送番組の年間28パターンの総制作費が3億100万円であったのに対して、年間の営業収入はわずかに9,300万円。差し引き2億800万円の赤字額は、当時の当社1か月分の月間営業収入にも匹敵するもので、経営的にみても予想以上のリスクを背負う結果となっていったのである。」
一般局でも教育・教養番組の充実が免許条件の一つとなっていた事もあり、学校放送のネットワークは充実するが、一般ではやはり苦労する。そのためネットワークはフルネットのMBSのほかは、福岡の九州朝日放送(KBC)とはニュースはほぼNET(当時は「朝日テレビニュース社」制作 現・テレビ朝日映像)だったが、一般番組はフジテレビから7割、NET2割…という散々たるものだった。
一方KRTは34年8月、NHKの全国取材網に対抗して16社でジャパン・ニュース・ネットワーク(JNN)を結成する。「共同制作の質の向上、内容の充実を図り、取材連携を密にして、ニュースネットの強化を目指す」(協定前文の要旨より)ニュースネットワークで、加盟社以外の素材交換・機器の援助、つまりニュースのクロスネットを禁じた。さらに35年にはKRT(この年よりTBS)-ABC-北海道放送(HBC)-CBC-RKB毎日放送(福岡)の基幹地区5社による「五社協定」も締結、文字通り最強のネットワークとなっていた。
しかし新聞で見ると…
KRT系 毎日・朝日・讀賣(東京)-朝日(大阪)-地元ブロック新聞(北海道・愛知)-毎日(福岡)
NET系 朝日(ニュース協力)・日経(東京)-毎日(大阪)-朝日(福岡)
テレビ側ではいいとしても、新聞社としては歯がゆい思いがしていたに違いない。
これを問題にしたのが「電波に弱い」とされた朝日新聞だった。38年1月の常務会にて電波政策を打ち出した際、ニュースを提供しているNETをキー局にし、同時に「ABCのNET系化」が盛り込まれた。当時は「そんなアホな…」といわれそうな仰天計画だったが、翌39年社長・電波担当になった広岡知男は本気だった。
「将来はABCも朝日新聞のネットワークの中軸になるので、是非ご協力を」と、広岡はまず当時のABC社長・鈴木剛にネット改編を申し入れるが、強力なTBS系という傘の中でやっているだけにすんなりとはいかない。「朝日という名前の付いた局で、そんなことを言ってもいいのですか」とばかりムッとする広岡に鈴木は「これらの条件を揃わないとダメだ…」と出してきた。3条件とされていたが、調べると6つ…それ以上だったかもしれない厳しいものだった。
@NETは教育専門局に過ぎず、一般局に昇格しないと他ネットに太刀打ちできない。
ANETには日経と朝日の新聞資本が、TBSにも朝日・毎日・讀賣の資本が混在している。これをそのままにしてネット変更する積極的な理由がない。まずこれらの資本を整理する事。
BNETは赤字続きで、これでは一緒になれない。経営を立て直してほしい。
CNETの報道部門の外注をやめること。(以上『朝日放送の50年』より)
D名古屋(福岡)にしっかりとした朝日系列局がないとだめ。テレビのネットワークというのは最低限、東阪名九がきちんとなっていないと商売にならない。
EABCとMBSのテレビ部門の売り上げの落差が大きい。これを無理に…といわれては困る。両者の水準が同じになる事(以上『九州朝日放送30年史』より)
このように広岡は出直しを求められた。が、その直後KBCにネット異変が起こる。
7月1日、フジの専務・福田英雄がKBCを訪問する。それはフジの水野成夫社長のKBC取締役辞任の辞表と、「9月30日でネットを切り、テレビ西日本(TNC)に移す」という一方的通告を書いた文章を渡すためだった。KBCはニュースはほぼNETではあったが(35年からフジ系のニュース1本を受けている)、一般番組はフジ中心のネットだった。これには当然、衝撃が走った。
事の発端は讀賣新聞の北九州進出(39.9.23)。当時TNCは日本テレビ系ではあったが、親会社は九州のブロック紙である西日本新聞社。当然対応策をとらずにはいられない。そればかりか日テレは福岡に新テレビ局開設の動きも見える…それならば、と西日本新聞と協力関係にある産経新聞の系列・フジと極秘にフルネット契約を結んだのである。
70%のネット番組をどうするか。NET一本にするか、日テレと組むか、KBC社内では激論が続いたという。現場からは「NETメインで日テレとのクロスネットにすべし」との声があった。
その頃NETはワイドショーの草分け『木島則夫モーニングショー』(39.4.1〜)やMBS発の『アップダウンクイズ』(38.10.6〜60.10.6)と『がっちり買いまショウ』なども開始したばかり…核になる番組は『特別機動捜査隊』(36.10.4〜52.3.30)など一部東映系のテレビ映画ばかりで全体的に見劣りしていた。それに37年9月開局の名古屋放送(現・名古屋テレビ放送)もNET系列入りしていたが、日テレメインのクロスネット…一応基幹地区が整っているとはいえども「もっとも」といえた意見だった。
しかし社長・比佐友香は「ニュースなど、朝日との協力体制が深い」ことを理由にNET一本に決断した。KBC取締役としても名を連ねていた広岡にとっては面目を保ったのだ。比佐は「日テレは開局時に1週間20時間もの放送を断った経緯があり(※当時TNCは八幡(北九州)地方のみの放送で、KBCは福岡のみだった。37.2.14より双方中継局を設置する事により全県で放送開始)、それでも手を握るべきか」とのちに言っている。
余談だが、福岡からはじき出された日テレの一部番組はRKB毎日放送(TBS系)でも放送されることになった。しかしTBS系の基幹局であるゆえ様々な制約があった。内容もTBSの意向によるものだけに限られたので『ナイター』『プロレス中継』は放送できなかった。
朝日新聞は放送の支柱をNETとする一方、39年4月12日正午に開局した日本科学技術振興財団テレビ事業本部・通称東京12チャンネルの経営にも参加、ニュースも提供した。12チャンネルは現在のテレビ東京ではあるが、最初の9年半ほどは「財団法人日本科学技術振興財団」が運営していた科学技術専門教育テレビ局、つまり別物だった。
番組全体の60%は開局の翌日に開校した「学校法人科学技術学園」で学ぶ技術者のための『通信工高講座』を中心にした科学技術教育番組で、あとは『私の昭和史』に代表される高度な教育・教養番組を編成、22時には『朝日新聞ワイドニュース』という30分のニュース番組もお目見えし、叫ばれつつあった「テレビ低俗化」の声に応えようとしていた。ドラマなどの「娯楽」番組もあるにはあったが、教養色のあるものばかりだった。
予想通り、理想だけでは飯が食えなかった。視聴率不振や東京オリンピック(39年)後の不況(当初広告収入だけではなく、企業からの拠出金でも賄う事にしていた…それが集まらなかった)で開局2年で24億円という巨額赤字。その結果大闘争となった180人の解雇などのリストラを進め、放送時間の大幅短縮(41年4月から一年間。一日5時間半)、営業活動の停止を余儀なくされた。
一方で、43年4月からはカラー放送を開始、7月には制作部門を財界等が新たに設立した「株式会社東京十二チャンネルプロダクション」に委託させた。ことに娯楽番組が認められてから(42年11月14日、郵政省が20%認める)は個性的な番組が生み出され、『プレイガール』(44年4月〜 東映製作)と『ハレンチ学園』(45年10月〜 日活製作)はきわどいシーンの連発に「これでも教育テレビか!」という罵声を浴びつつ(特に『ハレンチ学園』は教育評論家・カバゴンこと阿部進が関わっていた。番組のはじめには「児童憲章」が読み上げられるなど教育番組であるというアピールか?)、時代劇『大江戸捜査網』(45年10月〜 日活製作)は江戸の剛(アクション)と華(お色気)を取り入れ高視聴率を獲得した。
MBSは第12チャンネルの免許で競合していた「中央教育放送」という会社と少しだが関わっていた。MBSにとっては密かに「東京の拠点」を作ろうとしていたのだ。MBSはのちにこの免許問題で行政訴訟を起したが、財界きっての大物ながら12チャンネルの会長でもあった植村甲午郎・経団連会長サイドから買収話が持ち込まれたことがあるという(その額35億円ともいわれている…)。しかし放送法の壁があり実現せず、話を持ち込まれた日経が「しぶしぶ」経営参加することになる(44年10月27日)。
同時に日経の要請によりMBSと協力関係的なネットワークを組む事になった。44年10月改編からのプライムタイム3時間のネットがそれで、最初は土曜22時30分からの『喜劇・花も嵐も』が12チャンネル、月曜21時から『プレイガール』と木曜20時から『巨人の惑星』(のちに『歌謡曲ただいまヒット中!』など)がMBSにお目見えし、ほかにNETで放送されていた『ヤングおー!おー!』が12チャンネルに移動(開始は44年7月3日 木曜20時→日曜18時)し、MBSでは12チャンネルの主要番組『世界ビックリアワー』『人に歴史あり』『なつかしの歌声』などが時間違いで登場した。また午後の帯ワイドショー『ファミリースタジオ230』もMBS主導で共同制作した。またMBSは12チャンネルプロダクションにも出資し、現在なおテレビ東京の株主となっている。
しかしMBSが事実上のクロスネットになったことで一部のNET番組が独立UHF局で放送する羽目になり(押し出された番組一覧(準備中))、また番組内容から端を発した「『23時ショー』ネット拒否表明」(46年12月3日 23時ショーの全タイトルはこちら)もあって、MBSのネットワークの発言権も増すにつれNETとの関係は波風が立った向きもある。

42年2月20日、四国・徳島で「NHK徳島教育テレビ」が実験放送を開始した。
これは37年頃より中継局用として利用されていたUHF(極超短波)の最初の親局であったが、結果的に地方の多局化に道を拓いた。42年11月にUHF最初の15社に予備免許が交付され、43年夏より各地で相次いで開局、ネットワーク面で貧弱だったフジが勢いづくことになる。
NET系も増えてはいる。北海道テレビ放送(43.11.3開局)と瀬戸内海放送(香川 44.4.1)がフルネット、広島ホームテレビ(45.12.1)がNET系メインの局(50.10.1からフルネット)となった以外は、クロスネット局が多く依然弱体ネットワークであった。さらに名古屋地区では名古屋放送が日テレ・NETクロスネット体制のまま、中京ユー・エッチ・エフテレビ(44.4.1 現・中京テレビ放送)もNET系入りしていた。
NET系のANN(オールニッポン・ニュース・ネットワーク)が12社で発足するのは45年元旦…ただし当時は名前のみで、MBSのように「朝日のA」と考えていた局もあった。その協定締結は4年後の49年4月である。
当時の新聞によると、NETと12チャンネルは、普通の番組も充実してきたもののいざお役所に報告するとなると四苦八苦だったという。
放送局の再免許(当時は3年ごと 現在は5年)にはその申請と放送内容の報告が必要だが、45年頃の両局のタイムテーブルを見ると朝はともかく昼・夜はのほとんどは明らかに娯楽番組…45年4月4日(土曜日)の場合、NETが『素浪人花山大吉』(近衛十四郎主演の純娯楽時代劇)、『夜のビッグ・ヒット』(歌番組。「そうなんですよ」の川崎敬三が出ていた)を編成すれば12チャンネルは『土曜競馬中継』(どう考えても娯楽 実況陣の一人に小倉智昭)、そして『バラエティーショー 夜の大作戦』(藤田まことらが司会 MBS発)を放送するといった具合に…。
そこでNETは『クイズ・タイムショック』『アップダウンクイズ』などクイズは教育、『ビッグスポーツ』『ワールドプロレスリング』などのスポーツは教養にして、12チャンネルではプロ野球は科学技術教育番組、奇術を見せる『世界ビックリアワー』は教育・教養番組にして報告していたとか。必要なものながら視聴率の取れない、そして収入の見込みのない教育番組は「お荷物」になってしまっていて、両局とも規制緩和を求めていた。最高25社を数えたNETの学校教育番組のネット局もMBS、瀬戸内海のみとなっていた。
48年10月5日、転機が訪れる。郵政省のチャンネルプラン割り当て計画変更が自民党通信部会にて了承され、事実上NETと12チャンネルが「教育局から一般局に転換する」ことが認められたからだ。これは朝日新聞のラジオ・テレビ室長、KBC社長もつとめた柴田敏夫が、親交のあった久野忠治が第2次田中内閣(47.12.22)の郵政相に就任したのを機に働きかけ実現したとされる。久野は田中総理の「腹心の子分」的存在であり、かねてから行われていた田中と広岡との話し合いも大きく影響している。
民放の教育局が消滅する理由について同日の朝日新聞(東京・夕刊)は「…営利企業が教育専門のテレビ放送をすることには無理があり、その点はすでに昭和39年の臨時放送関係法制調査会の答申にも指摘されていること、NHKによる教育専門放送(編注・NHK教育テレビ)がほぼ全国に普及し、その方で教育放送の目的がある程度達せられている事などが理由」としている。なお正式決定は2週間後の10月19日である。
10月30日の予備免許を経て、31日両局から教育局という「おもし」は外れ、11月1日より一般局に衣替えした。
同時に12チャンネルは財団テレビ本部を廃止(廃局)し、その資産を受け継いだ12チャンネルプロダクションが後を継ぐ形で新スタートを切った。社名も「株式会社 東京十二チャンネル」となる。放送局専属とはいえ、制作プロダクションがテレビ局そのものを受け継ぐのは稀な話でもある。両者は表向きながらも娯楽一辺倒にならないために、自主的な判断で「教育20%以上、教養30%以上」としていた。
しかし49年4月改編でほとんどの学校放送が消え、NETは小学校社会科の『みんなの東京』を除いて3月23日ですべて終了、MBSも『わたしたちの近畿』が残った(1997年で終わった)。理想の灯火が「やむ得ない形」で消さざるを得なかったのだ。後釜に『奥さまあなたの11時』『ミセスのタウン情報』(NET)『でんわで相談10時半』(12)という生情報番組が登場、名実ともに視聴率競争の中に入っていくことになる。

ABCが示したネットチェンジの条件面…NETの一般総合局化、MBSもテレビの収入でABCを抜いていたし(46年)、名古屋のNET系列局も名古屋放送に一本化(48.4.2から)されていて、あとは「新聞資本の一本化」を残すのみとなっていた。
ここで名古屋放送の状況について少し触れておこう。先にも述べたように37年9月1日、東海地区3局目として開局し、編成面でも日テレ・NETのクロスネット…6対3の割合で日テレメインであり、巨人戦も週3回(38年より4回)編成されていた。NETからはたびたび「五分五分にしてほしい」との要請もあったが、当時の神谷正太郎社長の「両局と仲良く」という方針は崩さなかった。また高視聴率番組をセレクトした編成は好評で、他局に影響を与えたとか。
44年に中京テレビができたもののこの状態は続き、45年4月ゴールデン帯の枠固定を柱とした「番組ネットに関する業務協定」を日テレと結んだが、47年10月改編で名古屋放送側が「土曜19:30から21:30をNET系の枠にする」…つまり野球がオフの期間だけでもNETへの義理を果たす…という作業に入った。日テレは協定違反(48年3月末が期限)として名古屋地裁に契約保全の仮処分を申請し(47.9.26)、2回の審判を経て地裁は和解勧告を出し、話し合いの結果和解・決着した。
これで47年10月改編は19時30分から20時、21時から21時30分は日テレ系の番組を放送するが、日テレが請求を放棄した20時からの55分枠はNET枠となった。それは『人造人間キカイダー』『デビルマン』の子供向け番組であった。また日テレは47年の日本シリーズ『巨人−阪急』を中京テレビに一部送り出したことがきっかけとなり、ここにきてネットワーク再編が持ち上がる。そして12月27日に4社トップ会談の末「48年4月2日から名古屋−NET 中京−日テレ」という図式が決まった。
放送業界の再編に味をしめていた田中の意向もあり、49年4月までに朝日・毎日・讀賣の各新聞社は在京テレビ局の持ち株を交換し、讀賣−日テレ、毎日−TBS、そして朝日−NETという図式となった。従来からのサンケイ−フジ、日経−12チャンネル(日経はNET株を朝日に譲渡した)とあわせてスッキリした形となった。
しかしテレビネットを北海道から福岡までの基幹地域でつなげた場合、大阪地区だけがどうしてもよじれている…夕刊ニュースもTBSが『毎日新聞ニュース』、NETが『朝日新聞ニュース』(39.4.27より一日三回、ABCへ裏送り開始)…大阪では当然その逆となる。長年いわれ続けた「腸捻転」を何とかしなければという動きがさらに高まった。
朝日新聞はABCに対して何度も打診をしてきたが、上記に示した条件が揃ったこともありABC側が拒み続ける事は難しくなった。
この動きをTBSがキャッチ、「民放界の問題」として先手を打つ。それは「MBSに対してネットワークの申し入れを行う」事、実に簡単な事だった。TBSは「日本の人口の六分の一を占める関西地区のネット局を失いかねない問題」として、MBSが12チャンネルと結んでいることを「重大な問題」として受け取っていたのだ。
49年のある夏の日。TBS社長の諏訪博は、仕事のため上京していたMBS社長の高橋信三に「ナイスショットナイスインしませんか」…とゴルフに誘い、五社協定加入を申し入れた。高橋はテレビ開局時のトラブルとは関係がなかった。だからこの申し入れを諏訪に行わせたのは今道の意向もあったが、諏訪は高橋の先輩(慶応)だったのが功を奏したのか「基本的にイエス。しかし12チャンネルとの問題は時間をかける」旨の回答を得る。この動きはTBSにも伝えられ、さっそく特定の幹部間のみで極秘に協議が行われた。そして、諏訪はABC社長・原清にネット解消を申し入れた。朝日(特に広岡)からは何回も言われ続けたこの言葉だが、長年付き合ってきたTBSが言ってくるとは思いもしなかっただろう。そして数日後には受諾されネットチェンジの現実味が加速する。
そして11月19日。4社は揃って翌年4月編成(実際には3月31日)からのネットワークチェンジの発表を行った。部長クラスでさえ誰も知らなかったTBS、あくまで受け身と強調するMBS、ネット上での福音だったというNET、そして危機感がみなぎっていたABCと各社反応は様々だった。
幹部間の極秘事項だったため、当然現場は誰も知らなかった。まさに火の出るような凄まじさであったという。4ヶ月と少しの間しかなかったためネット局や広告代理店、スポンサーへの説明などに追われたが、中でも番組編成はおいそれと変えるわけにはいかなかった。

「あくまで受け身」と強調しつつ、負けん気精神でここまできたMBSにとってJNN入りは開局以来悲願そのものだった。これでようやく真の全国ネットになる…と思ったのも束の間、TBSとの発信枠確保問題では真っ向からぶつかり合った。
人気番組を多数抱えていたTBSは「現状維持」を主張したのに対し、MBSは「週5時間以上の枠確保」を絶対条件にした(「週5時間」というのは在阪局にも権限を持たせるための基本としていたとか)。このために罵(ば)声が飛び交う物々しい雰囲気があったという。結果的には4時間で決着している。
MBSはNETに送り出す枠だけでも6時間11枠(19時台で6枠(いずれも30分番組)、21時台1枠(60分)、22時台4枠(60分1、30分1、15分2))を持っていた。まず21,22時台のドラマ枠を22時台に移動させた。TBSではあまり力を入れていなかったアニメ番組が入っていた19時台は難航を極めたが、『まんが日本昔ばなし』(火曜19:00〜 のちに復活)と『ジム・ボタン』(金曜19:00〜)は終了させ4本に減らした。『日本昔ばなし』は1月に登場したばかりだったが、評判もよかったので助命嘆願が来たほどだ。教養ものとして人気のあった『トークロータリー おとなの学校』(金曜22:00〜)は枠確保ならず「閉校」を余儀なくされ、『皇室』『真珠』は週末へ移動させられた(片や百貨店、片や私鉄…スポンサーの都合等もあったと思う)。12チャンネル枠はドラマ『プレイガールQ』が時間移動(火曜22:00〜)という形で続けられたが、翌年ドラマも終了し、ゴールデンタイムでの12チャンネル枠は消滅した。
ちなみに、ラジオで人気が出ていた落語家・笑福亭鶴光と姉妹漫才の海原千里・万理(千理は上沼恵美子)司会の視聴者参加もの『夫婦合戦 見合って見合って!』も登場、TBSへもネットされた。
一方のABCの発枠は5時間に増加したが、やはりネット局の激減で営業は四苦八苦だった。いっそのこと「自分ところで作ろう」という空気が流れ、てこ入れが図られる事になる。ソフトな語り口で人気のあった玉井孝アナの『おはようワイド 土曜の朝に』(50.4.5〜平元.3.25)、児玉清のパワフル司会が冴える『パネルクイズアタック25』(50.4.6〜)などが新たにスタート、長い間の懸案だった日曜正午枠は吉本コメディー『あっちこっち丁稚(でっち)』(50.4.6〜58.9.18)が登場し、46年1月にスタート、全国ネットされていた『新婚さんいらっしゃい!』は30分繰り下がり12時45分からとなる。
しかしこれらの事は視聴者にとっては「?」に過ぎない。そこで4社では視聴者が混乱しないため協議を重ね、3月の最後の週に1分の予告を入れることになった。つまりHBCで『新婚さん〜』を見ていた人は「この番組は来週から北海道テレビでご覧ください」、KBCで『野生の王国』を見ていた人は「この番組は来週からRKBでご覧ください」という具合にテロップも出て、周知徹底を図った。この処置を取った番組は両系列で120番組にも上ったという。
ことにMBS・ABCの場合、60%前後の番組が変更するのでPRにも熱が入った。テレビ・ラジオの番組・新聞の広告やPRのページはもちろん、MBSは「4月から4チャンネルだよ!全員集合」というキャッチフレーズを書いた幕をマイクロバス、ビルにつけ、ABCは阪神間を中心に選挙の如く「〇〇〇は6チャンネルで放送しています」とウグイス嬢に叫ばせた。
MBSには「4月から4チャンネルと6チャンネルが入れ替わるのですか?」「4月からABCから千里丘へ引っ越しますの?」などという珍質問があったが、「仮面ライダーはABCで放送するのですね!」というものも。仮面ライダーシリーズは今でこそABC(正確にはテレビ朝日)に変わったが、ごく一般の視聴者が夜の番組はほとんど東京発と思われているのは、昔も今も変わっていない。
また象印マホービンは3月30日、提供していた『スターものまね大合戦』(NET)のチャンネル変更広告をサンケイ新聞の大阪版ラジオ・テレビ欄に掲載した。「チャンネルが変わります! 今夜は4チャンネルで 次週4月6日からは6チャンネルで」とPRしているが、スポンサー側でこのような広告はあまり見られなかった。

『躍動する10チャンネル』…NETは50年3月31日の朝日新聞朝刊の広告にこう載せた。大悲願だったといえるABCとのネットを果たし、レギュラーニュース番組3本が一斉にスタート(当初、ABCの最終ニュースは自社制作『ニュース・ファイル23』)。プライムタイムにも『鬼平犯科帳』(丹波哲郎)や『宮田輝の日本縦断 ふるさと』、『賞金稼ぎ』(若山富三郎)といった大物の番組を投入、視聴率向上に期待を寄せた。
TBSは同日毎日新聞にPRのページを掲載、『ドラマの本領 春に一段と』と余裕綽々ぶりが伺える。それに華を添えるかのごとく、『ヤングおー!おー!』は300回、ネット局を一気にアップさせた『アップダウンクイズ』は600回を迎えている。今やはなまるのドン・岡江久美子が『ポーラテレビ小説 お美津』で連ドラデビューしたのもこの日だった。MBSも小川真由美と田村正和で『青銅の花びら』というドラマを制作している。
視聴率はそれまではABCが優位でMBSがそれに追う…という形式だったが、サンケイ(50.4.11付大阪夕刊)によると4月以降はそれが逆転したと報じている。予想通りとはいえ、4月第一週は夜の平均視聴率でもMBSがABCに4%の差をつけてトップに躍り出たのだ。特別番組でオールスターを動員させた『20年だョ 全員集合』(4.1)、後述の『影同心』(23.2%)をはじめ『水戸黄門』(29%)を含めたドラマの安定路線が功を奏したものである。ABCは一部のテレビ映画を除いて惨敗状態となっている。これを境にABCが自社制作を強化し、ローカル番組だった『プロポーズ大作戦』や『ラブ・アタック!』など全国でも通用したヒット番組をさらに生み出す原動力となった。
その後NETは全国朝日放送、つまりテレビ朝日に名を改め(52.4.1)、これまでのイメージからの転換を図り、懸案だったネットワークも平成元(1989)年10月の熊本朝日放送を皮切りに「朝日」という名のついた平成新局を多数開局させた。平成5年にはフジ系だった山形テレビの経営上の問題という名目でのテレ朝系鞍替えという深刻な大事件も経験し、ANNは現在26社を数えるまでになった。一方で毎日新聞は52年に経営危機に陥ったため新会社に移行、TBS、そしてMBSの株主からも撤退し「友好関係」のみに留まっている。JNNは平成4年の伊予テレビ(愛媛 現・あいテレビ)の開局で28社になったが、あいテレビは設立の経緯から、毎日新聞がかなり関わっているのは大きな皮肉だ。
結局、腸捻転解消は大政治家を巻き込んだというより、一新聞社の都合そのものではなかったのか。